大学時代からの友人、錯ちゃん(理学部化学科→工学部原子力工学科→原子力研究者)の1992・93年ビラの再公開(2014年12月23日)

朝倉幹晴

錯ちゃん(理学部化学科→工学部原子力工学科→原子力研究者)ビラ、公式サイト上再公開にあたって

2014年12月23日(52歳誕生日・原点を確認する意味も込めて)
船橋市議(無党派、1987年当時東大農学部で
理系学生・院生の脱原発運動に参加)
私は1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故の際、東大農学部にいましたが、その事故にショックを受け、「脱原発」となりました。
そしてその後、大学卒業・駿台予備学校生物科講師となって以降も「脱原発」に関わり続けている中で、非常に印象に残る友人である「錯ちゃん」と時折意見交換をしました。
当初理学部化学科で「錯体」(キレ―ト化合物)の研究をしていた「錯ちゃん」と出会いました。彼女は自分に研究の出発点が錯体(キレート化合物)であることを明記するために、自らを「錯ちゃん」と名乗られていました。彼女は、脱原発の意志を持ちながら、原子力工学科に進みました。その「錯ちゃん」が1992・93年に書いたビラを、私は当時印象深く読み、今につながる生き方(理科系の人間としての科学技術に対する姿勢)につながっています。
311以降、20年ぶりに「錯ちゃん」に再会し、ご本人の許可をいただき、
1992年・93年に、私が人生に影響を受けた「錯ちゃんビラ」を、2011年福島第一原発事故後に再会しご許可をいただき、ここに掲載できることができることになりました。
皆様、お読みいただき、感想があればお寄せください。私から錯ちゃんにお伝えします。

(旧携帯サイトに2011年に公開したものを、原発再稼働が危惧される2014年12月に公式サイトに再掲載します)

★【錯ビラ’92】
意見広告
「原発」があるから「反原発」をやらなきゃいけない・・・・
だから本当は
「反原発」はいらない!
はずだったんじゃないの?

いいたいことをいってみたビラです
どうか感想きかせてください!
by 錯ちゃん

言いたいことのほんの一部 ご意見・感想まってます!

<本文ここから>
初めて原子炉の制御室(コントロールルーム)に入った時
このボタンを押して、このデジタルの数字が何になる迄、とか
まるでゲーセンみたい。
原子炉室には人がいるのかも分からない。まして人がどんなふうに、
どんなことをしているのかなんて、分かりようがない。

手も足もばらばらにされた様な気がした。

制御室にいて、現場で働く人の痛みが分からない者の想像力の貧困さ、鈍感さを、責めるのはた易い。
しかし、分からなくさせているシステムの方が、
それを作った奴の方が、ずっと責められるべきだろう。

東京電力の人間が講義をしに来て、レジュメの最初に
「人類が等しく平等で豊かな生活を送るため~エネルギーの供給とその公平な配分を~」とあった。
それを見た途端、頭がぶっちぎれた。
もし万一、「人類が等しく平等」だったなら
あたしはこんなところ-原子力工学科-に来る必要なんかなかったんだ!

「核分裂過程」という映画を見た。西ドイツ再処理工場建設反対運動の記録映画。
集まった群衆に機動隊が放水車で化学兵器*の毒液を浴びせ掛ける。群衆は戸惑いながら、洗瓶の水で互いに目を洗う。
悔しくてたまらなかった。
もし科学というものがその時代の人間に等しく恩恵を与えるものなら、「彼等」と我々とは同じ物を持っている筈だ。しかし実際には「彼等」は化学兵器*を持っており、我々には洗瓶の水しかない。

「科学」「技術」「学問」とやらは皆、権力に独占されているのだ。
民主的な人々の美浜事故を考えるシンポジウムで「そういう事は専門家にお任せして」と連発する人がいたが、
「専門家」に任せた結果が今のこの現状じゃないのか。
権力に独占させて来たものを取り戻さなければならなくなったんじゃないか。
「原発」がなかったら「反原発」なんかやることなかったんだぞ。

このシンポで例の美浜の破断した蒸気発生器細管断面の電子顕微鏡写真が出たが、説明はとにかく誰も問わなかったのが
「一体”誰が”放射能のプールの中からこれを取り出して、こびりついた放射能のサビを落として、顕微鏡の所迄持って来たんだ?」

動燃が「もんじゅ」のメンテナンス(配管リーク探し)用ロボットを開発しているというのを見学した。
「高線量で人間の入れない所だからロボットに作業させる。人間が据え付けに担いで行くので軽くするのが問題だった」
「人間が入れない所」に?「人間が持って行く」?
頭が混乱して来る。
(ちなみにそれは27キロと11キロの2つのパーツで、2人で持ってくそうだ)

動燃が幌延で配っている「ほくい45ど!」なるPA紙がある。これに「原子力と共に歩む東海村」なる記事が載っている。
「東海村は原子力施設を受け入れたお陰でこんなに良い事がありました」という話を幌延の人に読ませようという訳である。

昨年の台風**で深刻な被害を受け、出稼ぎの増えている青森のリンゴ農家に、おもむろに原発労働の求人が出ているという。静岡の浜岡原発から。
「初めて出稼ぎに来る人は熱心で教育もしやすい。これを機に、青森ルートを開拓したい」のだそうだ。要するに知識のない人なら騙せるという事か。

卑怯という言葉は、奴等のためにある。

東電から講義に来た奴は、美浜の配管切れは予測してた事だと言った。対外的には絶対にそんな事言わなかった癖に。
それよりも弁が開かなかった等の人為的ミスが問題だ、これからは「人間そのものの品質管理」が重要だ、とほざきやがった。自分は何様のつもりなんだ?

こいつによれば、今は原発の新規立地を陸地にやろうとして場所を発表すると「一坪運動」がすぐやられて厄介だという。だから「ここだけの話だが」海上に「人工島」を作ってそこに原発を建設しようというのである。用地買収にてこずる事を考えると、島を作って6基も原発を作れば十分ペイするのだという。こうして反対運動を無力化し、牽制しようという訳だ。東側の遠浅の所では島を作り、そうでない所は船のようなものが接岸する形とする。あるいは関電などは地下式も考えている。奴等は本気でやる気であり、その場所は「反対派に知られると大変なので」ぎりぎり迄伏せておくという。それにしても目の前にその「反対派」がいるとは思わなかっただろうな。

この東電の奴は、一般大衆に原発に不安が広がったのは、自分達が社会とのコミュニケーションつまり原発の安全性のアピールを怠って来たためだという。奴等は本気で総括している。連中は本気になればとんでもない程の金やメディアを総動員してやって来る。既に現在は押されぎみになっている様な気がする。反原発が声を上げるのは連中よりもずっときつい事だが、でも頑張らねば、と思う。

しかし実際、今原子力産業の連中は、深刻な人手不足に悩んでいる。大学の原子力関係学科はどこも奇麗なパンフで学生を獲得しようと必死だが、現実にはどこも閑古鳥だ。こんなに最先端、こんなにすごい、こんなに夢がある、とぶち上げればぶち上げるほど、今の学生には却ってウソ臭くしか感じられないという事がどうしても分からないらしい、御苦労さん。
日本原子力研究所も非原子力部門を半分にまで増やす事にした。そうしないと人が来ないからだ。
今時原子力をやる気があるのは「先進国」では日本位だとは連中自ら言っているが、そのやるべき日本で人材が集まらないのは奴等にとっては大きな痛手である。そしてそれは、「原子力はヤバそう」「アブナそう」「原子力はノー・フューチャー」と若い人の間で囁かれ始めたからであり、それはTMI・チェルノブイリのためも大きいが、反対運動の成果でもあると思う。
閑散とした、雨漏りのする実験室だけが、私に希望を与えてくれる。

尤も、人手不足で潰れる寸前の原発程危ない物はないだろうし、今のような話は、現場の被曝労働者には何の意味も持たないことは分かってはいるつもりなのだが。

高速増殖炉をこれから先に原電と動燃で1つ、東電と関電で1つずつ、合計3つ作る計画があるらしい。しかし効率性などでは現在既に原発は火電にとても太刀打ちできず、原子力(核分裂)はせいぜい21世紀中の技術だと関電の奴自らが言っていた。
まさに「ノーフューチャー」といった所か。
プルトニウムも余ってる事だし、だったら何でやるんだよ。

動燃東海で作業員2名がプルトニウムで被曝した。骨表面で878ミリシーベルトと法令の限度すら超えた大量被曝だったにも拘わらず「健康には影響はない」と言われてしまった。

「人倫にもとる」とは、こういう事を言うのだ。

ならば一体「健康に影響のある被曝」とはどの位だと言うのだろうか。放射線被曝による発ガンなどの危険はどんなに僅かな被曝でもそれなりにあり「これ以下なら大丈夫」といった「しきい値」は存在しない。という訳で、被曝量の限度の基準は何かというと、
何をしていても死ぬ確率はある、例えば建設現場で働けばこれだけ「寿命が縮まる」、他の仕事ではこれだけ、として、被曝限度は、建設現場で働いたのと同じだけ「寿命が縮まる」様に「決めて」ある。そしてその分は、金をやるから、或は好きで放射能なんかいじってるんだから、その位寿命が縮むのは諦めろ、という事なのである。

この講義をした人は「ヒロシマ・ナガサキは20万人規模の人体実験」と笑いながら言う人である。放射線の人体影響を研究する人はこういうつもりでやっているのだ。

だからいざ、被曝した労働者が訴えようとした時、こうした医者がそれをもみ消し、潰すために一役買うのは、むしろ当たり前の事なのだ。

美浜事故の調査委員長だった教授はテレビで
「振れ止め金具が設計通りになっていないとは思っても見なかった。だからチェックしようという気さえ起こらなかった」と言っていた。
設計には大した自信をお持ちだこと!

「原子炉の中には水とかサビとかあるけど、どういう反応で何が起こってるかは全然分かってないんだよね」とある教授は笑った。
「従業員被曝低減」のための研究とか銘打ってやってるが
これから一から始める事ならともかく、もう30年も動いてて
今頃こんな事やってるのはどういう事だ?
今迄の被曝は何だったんだ?現場の被曝がどんなものか考えもせずに「研究」なんて恩着せがましいんだよ。
かく言う私も頭で考える事しかできないが。被曝の痛みは絶対分からないと、分かっているつもりだが。

核燃料サイクル専門の教授は「放射性廃棄物処分なんて後始末の事はやりたくないんだよね」と公言していた。皆がそう言ってたら誰もやる人はいない。「科学」の発展が中立だなんてとんでもない。原爆作った時は皆で「やればできる」事もあったかもしれないが、誰もやらなければ絶対にできないのだ。

放射性廃棄物はガラスで固化して安全に地層処分、と言うけれど、ガラスなんて地下水で腐って放射能は漏れてしまう。いかに漏れないガラスを作るかなんて話はもう誰も考える気がない。
学会で「放射性廃棄物処分」と言えば「漏れた放射能が地下の環境中でどうなるか」の話である。しかも「漏れても大丈夫、何とかなる」という、結論が先に決まった話になっているのだ。

恐るべき甘え。「母なる大地」が何とかしてくれるに違いない!

しかし実際には大地は母なんかじゃない。ただの土であり、岩だ。
そしてスウェーデンのモルナー氏が「プルトニウム会議」***で言った様に「岩はこうした問題を任せられる相手ではない!」のだ。

こうして見ると「母なる大地」というのは「敵」のボキャブラリーである。反対運動の側もこの言葉を使っている限り、「お母さんに迷惑をかけるかかけないか」の違いでしかなく、それでは勝てない様な気がする。

「私達女はいのちを生み育てる母として」という言い方がよく反原発運動でされるが、
私は女だが「母」になるかは分からない。「母」でなくとも「私」は原子力が許せない。

放射線作業に従事する人がフィルムバッヂをつける時、男は胸につけるのに、女は腹につける事になっている。上半身の方が被曝は多いとされているのに
「女の腹」は「女」自身よりも大切だという事らしいのだ。
ご丁寧に「妊娠不能と診断された者を除く」という但し書き付きで。
私は子どもは産まないかもしれないが乳ガンにはなりたくない。
その一方で「男」の体や子どもを作る権利は顧みられず、被曝労働に送り込まれている。
あるいは「放射能で障害児が生まれるから良くない」と、今いる「障害」者の人の前で言えるだろうか?

まだ存在しない「子ども」よりも、今被曝している人、今存在する「私」から、原子力を撃って行きたい。

被曝労働者を追う写真家の樋口健二さんの言葉。
「最初に『エネルギーをどうするか』を考えたのがいけなかったのではないでしょうか。最初に考えるべきだったのはエネルギーでなく『人間をどうするか』だったのではないでしょうか」

全くそう思います。

(とりあえず)おしまい

<注>
*原文に事実誤認がありましたので、趣旨を変えない形で表記を改めました。
**1991年9月の台風19号。
***1991年11月に原子力資料情報室等の主催で開催された「国際プルトニウム会議」。

 

★【錯ビラ’93】
意見広告II
ねこの首に鈴をつけるのはだれ?

みんなで考えていきたいと思います。
小さい字でごめんなさい!
by 錯ちゃん

<本文ここから>
昨年の「反原発はいらない!」ビラには多くの方にお手紙を頂いたり紹介して頂いたりして、本当に有難うございました。予想外の反響に驚くと共に、原発に反対する人々の「力」を感じ、私達は決して一人一人ばらばらではないと勇気づけられるものでした。

そこで 又しても他人の言葉を並べるのも何なのですが

「脱原発」という思想はエネルギー大量消費型の社会の在り方を捉え返す事から必然的に「もう一つのライフスタイル」、エネルギー消費に頼らない豊かさの価値を提案する事になったと思います。

そこで私は(そんなに新しい事ではありませんが)
「もう一つの脱原発」の位置付けを提案したいのです。

「プルトニウムの人体への影響は結局人体実験しないと分からない。『ウラルの核惨事』でプルトニウムを浴びた何千、何万の人のデータが見たいものだ」と「夢見るような眼差し」で語っていた学者がいた。
そもそも何故「人体実験」して迄「研究」がしたいのだろうか。
プルトニウムは危険だから使わない、で済ませないで
「どのくらい」人が死ぬのかどうしても突き詰めようとするのは 結局は
「もっと」人を殺すためではないか?更にプルトニウムを使う事によって。
しかし本人は、自分が被曝するという事は考えた事もないのではないか。

ある原子力メーカーの人間が
「チェルノブイリの事故で、原発事故には国境はないという事が分かった。自分の国に原発がなくても隣の国で原発事故が起これば同じ、どこの国で誰が原発作ろうが関係ない、日本も日立も三菱もない」だからやるのだ、と言う。原子力産業のヤケクソの心中宣言ともとれるが
自分の所でやらなくてもどうせ他人のとばっちりが来るなら自分の所でやらなければ損だという事なのだ。つまり原発は「やったモン勝ち」なのだ。
その伝でアジアの諸国も死なばもろともに巻き込もうとしてるんだろうな。

あるいは他の意見
「原発に反対する人がちょっと節電なんかしているが、現に原発は存在して発電している。今更30%も節約したら経済活動が成り立たなくなる」
つまり原発が現にある以上、反対しても無駄、という正に「やったモン勝ち」問答無用の言い草である。
それで「民主主義」なんて言葉を平気で口にしたりしているけれど。

この「やったモン勝ち」の思想こそは
いくら女性が抗議してもなくならないセクハラ、車椅子が通れないと分かっていて設置される自動改札、など他の様々な問題にも共通する差別の思想なのである。

原発によって誰が差別されているのか。
金と引き換え或は民族や出自の差別によって被曝労働を強いられる労働者。
「経済力がない」とか「過疎」だとか「発展途上国」だとかで
放射能汚染を押し付けられた全ての土地、そこで苦しむ人々。
汚染食品の行方も気になる。

「核」にとって被曝が避けられない問題である以上、
被曝する人を作らねば、つまり被曝を一部に強いる差別構造がなければ
原発は成り立たない。
逆にその差別構造ゆえに、いくら「科学」「技術」が進歩しても
被曝はなくならない。
「応力腐食割れ」には、彼らの「財産」に関わるゆえ全力で取り組んだ科学者たちも、「作業被曝低減」については「本来やらなくてもいいような重大じゃない事だけど最近余裕が出て来たから始めた」程度の認識なのだ。

原発問題は差別問題なのだ。
原発を容認することは、エネルギーをふんだんに使い自分は「豊か」になる代わりに他人を踏み付けにする社会を容認する事に外ならない。

だから私は「反差別としての反原発」という思想を提案したい。
他人を犠牲にして自分だけが良い目を見る事を拒否し
それで多少不便になったとしてもそれはそれで受け入れる、という事で。

一部の原発推進の人々は「原発に反対する奴は『バカ』だ」と言う。
彼等は彼等の「原発=差別」の文脈でこう言うのだ。
これに対し、残念な事に一部の反原発の人が「推進派も被曝すればいい」「原発の近くには『奇形児』が沢山いる」などと言うのを聞いた事がある。
私にはこういった事を言う「反対派」と「推進派」の区別がつかないのだ。
原発を差別の思想と捉えるならば、同じ事を反対派がやっている限り原発は決してなくならないだろう。
原発を一刻も早くなくすために、原発と「違う発想」をもっともっとして行かなければ!

「原子力工学科」にいる私には「差別」の厳しい現実は見えて来ない。ここは「現場」であって「現場」ではないのだ。
「主婦の人が放射線検出器を持っているのを知っていますか。チェルノブイリの事故で一般の主婦の人達が食べ物の放射能を測るようになったんです。そういう人のためにもっと安くて性能の良い検出器が普及するといいですね。」と言った学者がいた。これは全くその人の「良心」から出た言葉であろう。
一体何故「一般の主婦」が放射線検出器を持たねばならなくなったと思っているのか。その責任を取って自分で放射能を測定しに行く訳でもなく
良くこんな事が言えたものだが
まかり間違えば「科学者の良心」などこんなものかも知れない。
(勿論原発に反対して放射能を測っている心強い科学者も大勢いらっしゃるのだが)
「原子力」に仮にも「科学(?)」なるアプローチで関わったうえで、どのように原発を支える差別構造を打破して行けるのか、
これが私の課題である。

がんばります、みんなとともに。