船橋の地名・学校名の由来

2023年1月4日 朝倉幹晴

あけましておめでとうございます。

一般的な船橋各地の歴史の基礎は以下をご覧ください。

【船橋史】船橋各地の歴史の基礎説明

 

学校名の基本となっっている現在の住居表示の町名の由来(50音順)

小学校(●●小と表記)中学校(●●中と表記)
(学校名と住居表示名が一致していない場合は、(  )で示し、その学校名の由来の説を示しました。)


・以下、説明には諸説を全て書ききれない場合、一部のみを書いたものもあります。したがって以下の解説が「全て」ではないとご理解ください。
・地名の由来は全体的にはっきりした文書的証拠が残されていなく伝承などによることが多いため、曖昧さが多い点もご理解ください。
・記述にはいろいろ配慮いたしましたが、不備な点があればご指摘ください。
・主な参考文献は「滝口さんと船橋市の地名を歩く」「船橋市デジタルアーカイブ」です。他にも様々な記述(文字・ネット)などを調査いたしました。

●旭町
この地区は縄文時代の貝塚があったことから「前貝塚町」「後貝塚町」と命名された。(「前」「後」の起源ははっきりしないが、村が開かれた順序に由来するという説がある。)この地区はもともと「塚田村」で、1937年(昭和12年)、二町三村(船橋町・葛飾町・八栄村・法典村・塚田村)が合併して船橋市の市政が施行され、1940年(昭和15年)に町名を設定する時、「後」の地名を避け、鎮守の熱田神社の祭日「九日」にちなみ、町の発展を願って「旭町」と命名された。

・旭中

東町(あずまちょう)
市政施行された1937年時点で、元八栄村のこの地区が船橋市の東端であったため命名されたという説が有力です。

●市場
船橋市中央卸売市場(今は船橋市地方卸売市場)があった地域であることから「宮本」から分離されて命名された。
・市場小

●印内(印内、印内町)
1889年(明治22年)に合併して葛飾村(葛飾郡栗原郷とも呼ばれた。のちに葛飾町、そして1937年からは船橋市)になった8村(西海神、山野、印内、古作、寺内、二子、小栗原、本郷)の1つ。春日神社(国道14号と京成線の間)を鎮守である。印内の命名の由来は大きな寺院などの敷地内であったなどの諸説があるがはっきりしない。「西船」の北側に印内、春日神社周辺と西船橋駅の南側の一部に印内町がある。
なお、もともとの「葛飾町」の町名は現在「葛飾小」「葛飾中」「葛飾公民館」、西船橋駅南口の一部の地名「葛飾町2丁目」に残されている。もともと「京成西船駅」も「葛飾駅」であり、そのことは現在でも、京成西船駅構内の上野駅ホーム内に記されている。
(・葛飾小(・葛飾中)

●大穴(大穴北、大穴南、大穴町)
豊富村の一部。1953年(昭和53年)の二宮村の船橋市への合併に続いて、1954年(昭和54年)に船橋市に合併される。大穴の名前の由来には諸説あるが、「水の湧き出る大きな穴」があったことに由来する説が有力である。(他に金鉱や砂鉄を探して掘った大きな穴に由来するという説もある。)
大穴小大穴北小大穴中

●大神保町(おおじんぼうちょう)
豊富村の一部。神の保、神社領であったのが名前の由来であるという説があるがはっきりしない。江戸時代に新田開発(神保新田)が行われ、バス停名に「神保新田」が残る。

●海神(海神、海神町、海神町西、海神町東、海神町南)
日本武尊(ヤマトタケル)が上陸した地、あるいは海上安全を願って海神をまつった、または鎮守の竜神社が海神をまつったとの伝承から命名されたと言われる。ギリシャ神話で海神はポセイドン(ギリシャ語、ラテン語ではネプチューン)、その息子の海神はトリトンである。そのため、海神にはネプチューン、ポセイドンが使われていた喫茶店やアパートがあり、京成線海神駅のチャイムに「海のトリトン」が使われている。

海神小・海神南小・西海神小・海神中

●葛飾町2丁目
「●印内」参照。

●金杉(金杉、金杉町、金杉台)
船橋の夏見にあった「夏見御厨」(なつみのみくりや)という荘園の一部であった。もともと南金杉村という村があり、金杉の名称は鉋(かんな)でそいだような傾斜値があるということから命名されたという説(「杉」は「そぎ」に対する当て字である)がある。(実際、夏見台から一旦降りて登る金杉の坂は、市内を自転車で移動している私にとっては、一番の「難坂」で自転車は押して上る。)
・金杉小・金杉台小・金杉台中(2023年3月廃校)・御滝中

●金堀町(かねほりちょう)
古来、金を試掘したことに由来するという説、鉄に由来するという説がある。

(特別支援学校中高等部、通称「金堀校舎」)

●上山町
東京湾からしだいに高くなった台地ということで「上山」との地名となった。江戸時代に「上山新田」が開発された。
(・法典西小)

 

上山町に法典西小があることに関連して、「法典」(ほうでん)の由来も含めて書く。

丸山は西隣の道野辺村(鎌ケ谷市)が利用していた野原だった。江戸時代の延宝三年(1674年)に、行徳の人が幕府の許可を得て新田を開く。丸山新田は1889年(明治22年)に藤原新田・上山新田とともに法典村となり、1937年の二町三村合併で船橋市となる。(一方、道野辺村は鎌ケ谷市となる。丸山の南側の二和川の谷はすでに道野辺村の人が開いた水田を作っていたので、丸山は鎌ケ谷市に囲まれた船橋市の飛び地となった。)
藤原は「藤原氏」に由来があるという説もあるがはっきりしない。「法典」の由来は、小字「法傳」が発展したという説、日蓮上人が通った時に法を説いたので「法伝」から由来するなど様々な説がある。

●北本町
本町の北側ということで命名された。(→「●本町」参照)

●行田(行田、行田町)
・行田西小・行田東小(・塚田南小)・行田中

江戸時代、行徳の人が入居し、「行田新田」といわれる新田が開発された。塚田小・塚田南小・塚田公民館・塚田駅などの地区名「塚田」は前貝「塚」・後貝「塚」(旭町)と行「田」を合わせて命名された。

●楠が山町
江戸幕府に楠の用材を納めていたという説、楠が多く生えていたという説など諸説がある。
●車方町(くるまがたちょう)
由来不明。中山法華経寺文書(1406年(応永13年))に出てくる「ふるまかた」という地名に由来する説がある。「古馬方」の転名という説もある。

●高野台(こうやだい)
小金牧という幕府の放牧場の一部が江戸事態に新田として開発された際に、開墾地を示す「高野」という名称がつけられたという説がある。

●古作(古作、古作町)
葛飾川の北側の小さな谷あいにあった地区なので「古谷」「古作」「小作」と命名された。

●小野田町(このだちょう)
「おのだ」ではなく「このだ」と読む。鈴身川の豊富な水量で多くの水田が育まれ、江戸時代初期の絵図には「此田(このだ)」と書かれている。戦国時代末期には小野田城があった。

●小室町
・小室小・小室中
史料上はじめて「こむろ」が出現するのは、建武新政で鎌倉幕府が倒れる(1333年)直前の、1331年(元徳3年)の「白井庄古牟呂村」である(正中山法華経寺資料)。谷間や低い土地を意味した言葉で、後に「小室」の漢字が使われるようになった。また、市内はじめての前方後円墳1基も見つかっており、印波国造(いんばのくにのみやつこ)の一角の地方小首長だったと推定されている。

●船橋市の北端紹介動画@船橋市小室町。2022年12月25日(日)朝
●船橋市の東端紹介動画@船橋市小野田町。2022年12月25日(日)朝

 

 

●米ヶ崎町
田野の間に突き出た台地の先端であることが由来と考えられている。

●古和釜町
「釜」は冷水の湧く窪みを意味し、この地にそれがあったと考えられている。「こわ」は「強」を意味し、「非常に冷たい水が湧き出る窪み」の意味だという説がある。
・古和釜小・古和釜中(両校の実際の住所は松が丘)

 

●栄町
埋立地で、縁起をかついで「栄」の字を使って命名された。

●咲が丘
もともと隣接してあった「三咲町」と「八木が谷町」の一部が1981年(昭和56年)に別の町となり新町名が名付けらることになった。市からは一旦「駒里」と決定されたが、一部住民の反対運動で町名決定の住民投票が行われ、「三咲」の「咲」と「八木が谷」の「が」を含んだ「咲が丘」に決定した。
・咲が丘小

●潮見町
1974年(昭和49年)に造成された人工島。船橋市動物愛護指導センター、三番瀬海浜公園、南部清掃工場。海浜部なので「潮見」と命名された。

●芝山
雑草地や入会地を示す「芝」と、台地斜面を示す「山」を組み合わせて命名された。
・芝山西小・芝山東小・芝山中

●新高根
1961年(昭和36年)に新京成線高根公団駅開業に伴い、駅の南西部が人口増をし、従来の高根町から分離して、1979年(昭和54年)に「新高根」と命名された。(「高根」は比較的台地なので「高嶺」と呼ばれ、それが「高根」となったと考えられている。)

●神保町
→「大神保町」の項目で解説しています。
●鈴身町
鎮守の鈴身神社から命名された。「鈴身」の由来はわかっていない。

●駿河台
東京、お茶の水の駿河台とは関係ない。もともとこの地区内だった中野木と宮本に2か所あった小字(こあざ)名「駿河台」が全体の名称となった。それぞれ徳川家康(駿河大納言)の家来が移り住み命名したといういわれのある字と、宮内駿河が闘って戦死したといういわれのある字である。

●高瀬町
1975年(昭和50年)、船橋市若松・浜町の海側を埋め立てて造成した。海岸沿いなので「高瀬」と命名された。高瀬下水処理場がある。

 

●高根(高根台、高根町)
・高根小・高根東小・高根台第二小・高根台第三小・高根中・高根台小

比較的台地なので「高嶺」と呼ばれ、それが高根となったと考えられている。新京成線の「高根木戸駅」は、この地区に下野牧(幕府の放牧地)の出入り口(木戸)があったのが由来と考えられている。

●滝台(滝台、滝台町)
滝(湧水)があったことが由来と考えられている。江戸時代に前原・滝台新田が開発された。

●田喜野井
・田喜野井小(・三田中)

田喜は「滝」と同じ意味で、水の勢いの激しい泉(井)があって、水がたぎっていたのが由来と考えられている。

●坪井(坪井町、坪井西、坪井東)
・坪井小・坪井中

開発される前は森があって、その中の坪のように狭い土地に住んでいたことから命名されたという説、坪のような泉があったという説、壺の形に似た池があったという説などがある。

●豊富町(とよとみちょう)
1889年(明治22年)に小室・小野田・車方・鈴身・大穴・楠が山・金堀・古和釜・坪井・八木が谷・金堀台が合併して「豊富村」となった。合併の際、豊富な繁栄を祈念し、命名され「とよとみ」と読む。(その後、1954年(昭和29年)に船橋市に合併される。
・豊富小・豊富中
●中野木
飯山満台地と宮本台地の間(「中」)にある野方(村落)なので中野木と呼ばれるようになった。
・中野木小

●夏見(夏見、夏見台、夏見町2丁目)
もともと「泥地」「湿地」であり、古語で泥のことをナヅミということに由来するなどの説がある。(伝承としては、日本武尊(ヤマトタケル)が海神(「●海神」参照)に上陸後、夏見台地で祈りをささげた時「ここは夏に見るとよいところだ」と言ったことによると言われる。(「夏見日枝神社縁起」))
・夏見台小(・八栄小)(・船橋中)

●七林町(ななばやしちょう)
七つの「御林」(明治以降は官有林)があったところを切り開いて作られた町であることに由来する。
・七林小・七林中

●習志野(習志野、習志野台)
市の名前となっている習志野市HPの記述をご紹介します。

「習志野」の名称は、陸軍大演習の際に明治天皇が命名されたものです。 明治6年(1873年)4月、明治天皇を迎えて行われた陸軍大演習の際、全体指揮をとった篠原陸軍少将のめざましい活躍を称え、「篠原を見習うように」とのお言葉があり、このことから「見習篠原」が「見習志野原」になり、習志野原になったという説があります。
(習志野市HPより)

・習志野台第一小・習志野台第二小・習志野台中

●西浦
海岸の漁場を「浦」といい、船橋にあった「船橋浦」の多くが埋め立てられ、その埋め立ての西の部分なので西浦と名付けられた。船橋市三番瀬海浜公園・南部清掃工場・動物愛護指導センターがある。

●西習志野
習志野(「習志野」参照)の西の部分なので。小学校名が「高郷(たかさと)小」となっている歴史は調査中。

・高郷小

●西船
もともとの名称は「葛飾町」だが、船橋の西側ということで命名された。→「●印内」参照

●二宮
二宮神社から名前をとった「二宮村」の役場(今は船橋市二宮出張所)があった場所。二宮神社は寒川神社ともよばれた時期もあり、下総国で2番目に社格が高いので「二宮」と命名されたとされる。
・二宮小・二宮中

●飯山満(はさま)
「米(飯)が山のように収穫出来て満ちた」ので「飯山満」としたという説と、「谷あい(はざま)」に当て字をしたという説などがある。
・飯山満小・飯山満南小・飯山満中

●浜町
1955年(昭和30年)に埋め立て造成され、浜にできた造成地なので「浜町」と名付けられた。その時、レジャーランド、船橋ヘルスセンターができ、その後昭和56年(1981年)に「ららぽーと」になる。

●東船橋
1967年(昭和42年)から区画整理が行われ、1981年(昭和56年)東船橋駅が開業した時に、「東船橋」と住居表示された。なお、「東船橋」は1311年に登場している古い地名でもある。

●日の出
1960年(昭和35年)に埋め立て造成される。その時、海からのぼる日の出がよく見えたので命名されたと言われている。

●藤原
藤原は「藤原氏」に由来があるという説もあるがはっきりしない。法典地区全体の名称のことは→「●上山(かみやま)」参照。なお法田中が、法典中でなく法田中となった理由については調査中。
(・法典小)(・法田中)

●二子町(ふたごちょう)
海から見ると海岸ぎわに台地が2つあるように見えたことから命名された。

●二和(ふたわ)(二和西、二和東)
・二和小
江戸時代、幕府直轄で馬を放牧する牧(まき、牧場)として、船橋地域には小金牧(5つの牧の総称)・佐倉牧(7つの牧の総称)があった。二和には小金牧の一つである下野牧の境界に作られた土手(野馬土手)がよく保存されている。明治政府は、牧を入植者によって開墾し農地にする方針をとり、東京府の下総開墾局が千葉県内で順番に開墾を進め、初富(はつとみ、現鎌ケ谷市)、二和(ふたわ)、三咲(みさき)の順に入植を進めた。現在の地名や駅名の豊四季(柏市)、五香(松戸市)、六実(松戸市)、七栄(富里市)、八街(八街市)、九美上(香取市)、十倉(白井市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余二(成田市)などに開墾の順番が残されている。
当初はいった開墾会社が計画以上の資金が必要とわかると開墾を放棄し、多くの入植者も去った。しかし、残った少数のものとあたらな入植者によって開墾が続けられた。

二和の歴史(船橋市HPより)
下野牧二和野間土手(船橋市HPより)

●本郷町
1889年(明治22年)に合併して葛飾村(のちに葛飾町、そして1937年からは船橋市)になった8村(西海神、山野、印内、古作、寺内、二子、小栗原、本郷)の1つ。そもそもなぜ本郷町という名称だったかは不明。(ただ、日本各地で、自分がその土地の中心だと主張する時に「本郷」と名付けることが多いという。)

●本町
(・船橋小)
家康が鷹狩の時に泊まった「船橋御殿」があり、東金街道の起点の宿場町「船橋宿」であり、船橋大神宮(意富比神社)も隣接する船橋の中心地なので「本町」と名付けされた。

●前貝塚町
(・塚田小)
縄文時代の貝塚があったことから「前貝塚町」「後貝塚町」(現旭町)と命名された。(「前」「後」の起源ははっきりしないが、村が開かれた順序に由来するという説がある。)南側では、江戸時代、行徳の人が入居し、「行田新田」といわれる新田が開発された。塚田小・塚田南小・塚田公民館・塚田駅などの地区名「塚田」は前貝「塚」・後貝「塚」(旭町)と行「田」を合わせて命名された。

●前原(まえばら、前原西、前原東)
・前原小・前原中
飯山満から見て前の野原ということで名がついたと考えられている。「はえはら」「まえばら」「まいはら」の呼び名が混在していたが、今はほぼ「まえばら」に統一され、前原小のみ「はえはらしょう」と呼んでいる。
江戸時代に「前原新田」が開発された。

●馬込(まごめ)(馬込町・馬込西)
江戸時代にあった幕府の放牧場で、馬数を数えるなどのための追い込み場を「馬込」と呼ぶ。この地にその馬込があったことから名づけられたと言われる。

●松が丘
1973年(昭和48年)、古和釜町から分離した。その際、松林が多かったことから命名された。→「●古和釜町」参照
・古和釜小・古和釜中(実際の住所は松が丘)

●丸山
丸山は西隣の道野辺村(鎌ケ谷市)が利用していた野原だった。江戸時代の延宝三年(1674年)に、行徳の人が幕府の許可を得て新田を開く。丸山新田は1889年(明治22年)に藤原新田・上山新田とともに法典村となり、1937年の二町三村合併で船橋市となる。(一方、道野辺村は鎌ケ谷市となる。丸山の南側の二和川の谷はすでに道野辺村の人が開いた水田を作っていたので、丸山は鎌ケ谷市に囲まれた船橋市の飛び地となった。)
・丸山小(・法典東小)

●三咲(三咲、三咲町)
→「●二和」参照
・三咲小(実際の住所は二和東)

●緑台
1967年(昭和42年)船橋グリーンハイツが開発され、1973年(昭和48年)から緑台と住居表示された。グリーンハイツにちなんで命名されたと思われる。

●湊町
漁師町であることから命名されたと思われる。

・湊町小・湊中

●南海神
→海神の南地区。→「●海神」参照。
●南本町
・南本町小
 本町の南側。→「●本町」参照。

●南三咲
三咲の南側。→「●二和」参照

●みやぎ台
1981年(昭和56年)に、三咲町と八木が谷町の一部が分離して住居表示された。「み」咲と「やぎ」が谷を合成し命名された。

●三山
二宮神社を鎮守とする地域。「御山」または「宮山」が変化し「三山」となったと考えられる。中学校や公民館にある「三田」の名称は「三」山と「田」喜野井に学区・公民館区がまたがることによる命名。(→「●田喜野井」参照)
・三山小・三山東小・三田中

●宮本
船橋大神宮(意富比神社)の近隣区画であることから命名された。
・宮本小(・峰台小)・宮本中

なお小学校名となっている「峰台」は、この地に今でもある曹洞宗大峰山慈雲寺が広い土地を持っていたことから名づけられたと思われる。

●本中山(もとなかやま)
(・小栗原小)
鎌倉時代に日蓮上人が最初に開いた霊場である「正中山法華経寺」から由来する。(隣接の市川市にも「中山」があり、接点には京成線「京成中山駅」がある。)
もともとは葛飾郡栗原郷と言われた8村が合併し葛飾村になった地区で、その8村の1つでああった「小栗原(おぐりはら)」の名称が小学校名になっている。(→「●印内」参照)

●八木が谷(八木が谷、八木が谷町)
・八木が谷小・八木が谷北小・八木が谷中
中世には八木が谷城があった地区。名称の由来は城主「八木ヶ谷」氏に由来する、8種類の木があったという説、「八木」が「焼き」を示し焼き畑をしたことに由来するなど諸説がある。



●薬円台(薬円台、薬園台町1丁目)
・薬円台小・薬円台南小

1722年(享保7年、吉宗の時代)に幕府が下野牧の一部に作った薬園がある。医師・本草学者の丹羽正伯(にわしょうはく)が薬園の開発と薬草の栽培を行った。この地は薬園台とよばれ、今も薬園台高校や薬園台駅の名称に「園」の名前が残され、薬円台公民館前には「正伯公園」がある。住居表示においてはより簡略な「円」が用いられたが、歴史的には「園」が正しい。

●山手
一般的に都市が台地と低地にまたがっている場合、台地のほうを「山手」と名付けることが多い。1966年(昭和41年)に住居表示された際、隣接する「海神」や「本町」「北本町」より台地にあるので「山手」と命名したと推定される。

●山野町
葛飾村となった8村の1つ。(→「●印内」参照)
●若松
埋立地に解説された。縁起をかついで「若」「松」の漢字を使ったと思われる。(詳細調査中)
・若松小・若松中