1945年8月24日、陸軍最後の抗闘「NHK川口放送所事件」70年目の節目に平和を願う。 2015年8月24日 船橋市議(無党派)朝倉幹晴
「向日葵(ひまわり)が咲いていた」
(小林勇著、緑書房、amazonで購入可)
第一部 陸士第61期甲生徒ー上尾伊佐緒の青春残像ー
第二部 陸軍最後の抗闘ーNHK川口放送所占拠事件ー
映画「日本の一番長い日」で、70年前の1945年8月14~15日、陸軍若手将校が戦争継続を主張し、玉音盤(天皇のポツダム宣言受諾の玉音放送の録音盤)を奪取しようとした一種のクーデター未遂である宮城事件のことが全国的に有名になった。
しかし、宮城事件で、畑中少佐(宮城事件でNHK内幸町放送所を占拠し戦争継続の全国放送を試み失敗・宮城事件失敗直後に自決)と共に行動した窪田少佐(「日本の一番長い日」にも出てきます)のその後の動きは知られていない。窪田少佐は自決をせずに、陸軍予科士官学校(陸軍幹部を養成するために16~19歳の青年を教育する学校)寄居演習隊第二十三中隊(埼玉県)の61期学生約70名の教官をしていた本田中尉(20歳)と連絡をとり、再び、陸軍に戦争続行の動きをさせようと、宮城事件9日後の、8月23~24日に、NHK川口放送所占領事件を引き起こす。
2人が引き連れて、占領事件の実行部隊となったのは、弱冠16~18歳の学生67名であった。その中に上記著者の小林勇氏、そして、私の父もいた。その経過と、上官2人と学生67名の動き、NHK側や軍の対応などは上記著作をぜひお読みいただきたい。「日本の一番長い日」と似たようなせめぎあいがあった。事件の影響で、戦争中も一度も放送を止めたことのないNHKラジオ放送が、この日(1945年8月24日)は朝から午後3時まで放送を中止。
結果的に作戦は失敗、事件そのものでは死者はでなかったが、宮城事件時に阿南陸軍大臣が自決したことに続き、この事件では田中大将が自決した。
田中大将は遺書(一部)にこう記している。
「閣下並びに将兵各位は厳に自重自愛断じて軽挙を慎まれ以って皇国の復興に邁進させられん事を。 八月ニ十四日」
宮城事件直後に自決された阿南陸軍大臣も同様だが、若い人には決して自決せず、日本の復興のために生き抜くことを望まれた。
この事件を体験し生き残った67名の学生はそれぞれの戦後を生き抜かれたと思う。私はすべてを知るわけではないが、父のその後の生き方の一端を70年の節目のこの日、語りたい。父は上記著作81頁(第1部)に登場する。
父は戦争続行を主張しようとしてしまったことへの反省のもとに、それだけが理由ではないが、戦後キリスト者(プロテスタントのルーテル教会)となり、反戦平和を訴え、地元愛知県豊橋市で日本の伝統地場産業「がら紡」を守るとともに、憲法9条を守る運動(ここのつの会)にも参加している。母から「戦争が長引けば、父は満州に赴任する方向だった。そうすれば戦死しあなたは生まれなかったかもしれない」と小さいころに聞かされたことが私の平和への願いの原点となっている。
著者の小林勇氏は、医師となり、その後、水質汚染問題の専門家となり、父と同じく平和の意志を持ち続ける。「がら紡ふきん」で洗剤の使用量を減らそうとしていた父と、その分野で再会する。
宮城事件も含めて、あの時の陸軍の若手は「本土決戦」を決行しようと強く思っていた。そのことがクーデター未遂やNHK占領事件につながった。ただその時、上官たちが一部は自決も含めて、若手に「(生き残って)復興に邁進せよ」と訴えたことで、戦争終結時の軍の混乱が、この主に2つの「未遂事件」だけで終結した。
私はこの川口事件も思い出しながら、先日、映画「日本のいちばん長い日」を見た。戦争継続・終結それぞれの考えでそれぞれがせめぎあう中で最後の5日間の時が刻まれていく中で、最終的に戦争終結(敗戦受け入れ)が貫徹されたことに、今の日本の復興の出発点の1つがあると感じている。
(ただ、本当は8月15日では遅く、沖縄戦の前、あるいはそれより前に、戦争終結すべきだったという主張もあることは忘れてはならない。)
「軍」(士官学校)にいる時、一時的に好戦的な意見や態度をとっていても、その後の人生において、反戦平和の道に進む選択もあるということを父や小林勇さんの人生を見ると思う。
日本が再び、戦争に参加することのないように願いながら、
NHK川口放送所事件70年の節目を感じています。