東大駒場寮委員会での経験から~広報部会発行「ぷあ」復刻版(101期広報部長、102期寮委員長、朝倉幹晴)~

2023年12月28日 船橋市議(元東大駒場寮委員会第101期広報部長(「ぷあ」発行責任、102期寮委員長船橋市議会広報委員長)


<2023年10月21日(土) 東大ホームカミングデー 駒場寮同窓会主催講演会後にて泉房穂前明石市長(98期駒場寮委員長)と>

1、東大駒場寮の沿革
東大は毎年3000人が入学し、大学1・2年生の教養学部を目黒区駒場の駒場キャンパスで学び、3・4年生の専門課程や大学院の多くは文京区本郷・弥生の本郷・弥生キャンパスで学びます。ただし、駒場にも一部専門課程(基礎科学科、教養学科)があり、また駒場には留年生も多いため、駒場キャンパスの学生は約7000人となります。そして、東大駒場寮はキャンパス内にある学内寮で、1980年代当時約400人が住んでいました、(2001年に廃寮となりました)。寮は自主運営する寮自治会を組織していました。全寮生の直接選挙でえらばれる寮委員長が、執行機関である寮委員会を組織します。そして寮委員会が、寮の各部屋から選出される総代の集まりである総代会(議会に相当)に提案し、総代会で賛成多数で可決されたものを執行できる形をとっています。地方自治が市民の「民主主義の学校」と言われるのと同様に、駒場寮自治会は学生(寮生)にとって「民主主義の学校」でした。

東大駒場寮全景

2、1980年代前半の駒場寮自治会での課題
学生寮は、低所得者でも大学進学ができるように、低廉な家賃で生活できました。私が入寮した時の寮費は、国庫への支払い100円、寮委員会月2000円(うち200円が寮風呂のボイラーの重油代、1800円が寮自治会の運営費)であり、水光熱費は大学持ちでした。低廉な一方、施設改修は進まず、24畳の3人部屋で、蛍光灯2本、電気容量5Aという状態で、暗くて視力を落とす学生も多く、また、コタツとポットを同時に付けると5Aを越え、ブレーカーが飛び停電するという状態でした。
寮自治会としては、照明を倍加すること(1部屋蛍光灯2本→4本)、電気容量を三倍化すること(1部屋5A→15A)を求めて運動を行っていました。
一方、文部省(今の文部科学省)のほうは、水光熱費を寮生が負担せず大学が負担しているのは不適切だとして、水光熱費を寮生に払わせるように、大学に要請していました。

ここで、現在2023年時点の感覚からすると以下のようになると思います。
ア 照明と電気容量が少なすぎるのは、寮生の人権にも関わりすみやかに改修すべきである。
イ 水光熱費は寮生に払わせるべきである。そもそも月2100円は安すぎる。
ウ そもそも、教育に金をかけないと東大に入ることは難しい。東大生の親の年収は日本平均よりかなり高いと聞く。だからそんな層に経済的配慮をする必要はないのではないか?

この2023年現在の一般的な感覚からするとこれから紹介する寮生の中でも1980年代当時の議論全体が浮世離れに思われるかもしれません。しかし、

エ 第2次世界大戦後の混乱期・経済的困窮期も含めて、低廉な寮費が、家にお金がなくても大学で学べる保障となっていた。実際、当時、苦学生は多かった。

オ エの歴史を学び、教育の機会均等を守るため低廉な寮費を維持しようとする意志が学生・寮生の中に強かった。

という状況がありました。

その中での議論です。

文部省の要請もあり、大学は「寮生の水光熱費を負担しない限り、寮施設改善に応じない」という姿勢をとり、期限付きで「水光熱費の負担に応じない場合、廃寮も辞さない」という姿勢になってきました。当時の寮生は、その大学の姿勢は問題である点とする意見は共通しているのですが、実際の対応では、しだいに2つの意見に分かれていきます。

a 「負担増反対」路線。廃寮宣告に対しては徹底抗戦すべき(その間、寮施設改善が止まるのはやむをえない)。負担増を認めることで、経済的に苦しい人が大学に進学できなくなることは絶対に避けるべき。

 b 「水光熱費負担、施設改善」路線。個人の部屋の水光熱費の負担増はやむをえない。ただ共用スペースの水光熱費は大学負担を継続させることで、値上げ額を抑える交渉をすべき。そして水光熱費負担に応じるかわりに寮施設改善を行うことを確約・実施させるべき。

上記の2つの意見の支持は均衡し、両意見の寮委員長が選挙ごとに頻繁に政権交代する状況となりました。この議論が1982~1984年の3年間なされました。

そんな中で、1982年に98期寮委員長に立候補された泉房穂さん(現明石市長)は、対立候補に圧勝し、支持者とともに強力な寮委員会を作り、様々な改革を進めました。その改革の中で、私が最も感銘を受けたのが、寮委員会広報誌の名称を「ぷあ」に変更したことです。

 当時は今のようにネットもない時代です。たとえば、当時学生も含む若者の中では映画・演劇鑑賞がデートでも趣味でも定番で、新聞に広告のようにのる映画館案内情報を見るか、映画館に電話したりしないと確認できない状態で、ある学生が、映画・演劇などのイベント情報を掲載する雑誌「ぴあ」を創刊し、若者・学生の中で大人気でした。

 泉房穂98期寮委員長は、絶妙なネーミングセンスで、貧しい(経済的に豊かではない)家庭の学生でも、駒場寮に住めば大学で学ぶことができるという願いを込めて、駒場寮委員会広報誌をほぼ同じ字体でpoor(貧しい)からとった「ぷあ」に名称変更しました。

私は、その「ぷあ」の第4代編集長にあたる101期広報部長を務めました。その時に発行した「ぷあ」の現存版(4頁)が以下になります。



(3面に泉さんが全学オリ委員(新入生歓迎の委員会の委員)に選出されたことも書かれています)

細かい議論はわからない点があるかと思いますが、a・bの対立・議論の中で採決が行われた雰囲気をお感じいただければ幸いです。

私は、a(「負担増反対」路線)・b(「水光熱費負担・施設改善」路線)の意見対立の中では、bの意見でした。同じくbの意見だった101期寮委員長のあと、aの候補との間で寮委員長選挙を行い、113票対113票で同点、そして再投票の2回目投票で、115票対113票で102期寮委員長となりました。その後ももめましたが、bの路線で大学と寮委員会の合意書締結まで行いました。そして水光熱費負担も当初の月3500円案を月2800円まで値下げをさせました。合意に準拠し、大学側は、電気容量三倍化・照明倍加工事を2年後に行いました。

 

参考写真
1984年3月19日(実際は24時超えたため20日)、「水光熱費負担と施設改善」合意書仮調印(その後批准投票を経て5月24日、正式調印)

大学側 仮調印

さて、もう一度101期広報部長であった時に発行した「ぷあ」2・3面の記述の一部を引用します。

この採決結果は、賛成30、反対25、保留5で可決まであと1票でした。
これについては、元議長の方などから異議が出ました。というのは、
寮規約第47条
総代会の議決は次の方法による。ただし、本規約に特に定めがある場合にはその方法に従う。
一 採決には総代のみがあずかる。
二 議決の定足数は総代総数の5分の1とする。賛成・反対ともに定足数に達しない場合は再投票を行う。
三 可否同数の場合は議長の決するところによる。
四 有効投票数が出席総代の過半数に満たない時は再審査を行う。ただし白票は無効票とする。
に於いて、保留を白票=無効とし、有効30+25=55のうち賛成が過半数で可決という意見です。これに対して議長は保留も含めて現在数60の過半数31でなければ可決でないと判断しました。

bの意見を持った寮委員会とその支持者側が出した「四次案」が総代会であと1票足りず、この時点では可決しなかったと議長(aの意見)は判断しました。(この後、2月18日の総代会でb意見が可決し合意にいたる)。ただ解釈に関してもめた両方の意見を併記しました。(私個人の意見はあっても、それに限らず)多様な意見を両方紹介していきたいというのは、私がその後も大切にしている姿勢です。

東大駒場寮全景

寮の部屋での私(1984年)

角川書店から出された以下の本に私も登場します。船橋市中央公民館にも所蔵されています。

駒場寮については、2016年に東大駒場祭学術企画で以下の講演を行いました(講演60分、質疑30分)。よかったらご覧ください。泉さんや水光熱費負担区分問題は20~30分目で語っています。
●動画 2016年11月東大駒場祭学術企画「駒場寮から考えるコマバの未来」

この経験を今させていただいている船橋市議会広報委員会副委員長としても役立てようと以下のような提案をしました。

2021年8月4日 船橋市議会広報委員会議事録より

◆朝倉幹晴 委員  市民民主連合としてのご提案をご説明させていただく。
まず、1点目が、今、ふなばし市議会だよりと言われている内容に愛称をつけたらどうかということである。ふなばし市議会だよりというのは分かりやすいが、愛称があって、上でも下でもいいが、その愛称とふなばし市議会だよりを併記する形でやったらどうかなと思っている。
ちょっと個人的な経験だが、大学の寮のときに、寮委員会をやってきたときに、寮委員会便りという普通の便りを作っていたが、今、明石市長になった泉さんという人が「ぷあ」という非常に面白い名前をつけた。「ぷあ」というのは「peer」というタイトルをもじって「poor」──貧しい中にも暮らしているというようなイメージで愛称をつくったところ、それがずっと定着して、私もそれを引き継いでやらせていただいた経過があって、1回愛称ができると非常に愛着が湧くという経過もあったので、何か市議会だよりにも愛称をつけたらどうかなと思っている。そうすると、愛着が湧くとともに、それから愛称をここで決めるのではなくて、市民の中で公募をしていく形で、それを私たちが選考するというような形でやったらどうかなと思う。
2点目が、若い世代の参加を促すという意味で、今は表紙が写真に限定されているが、イラストとか美術の絵とか、そういうのをオーケーにしたらどうかと思う。イラストというのは、最近のアニメ系のものも、アニメタッチのものも含めたものをオーケーにすれば、より幅広い世代が参加できるのではないかということで、公募枠の中に、写真だけではなくて、イラストや絵などもオーケーにするという点である。
2点については私から説明させていただいた。
じゃ、3つ目だが、今、一般質問の市議会だよりの紙面割りが会派人数ではなくて、質問通告制にしてほしいということである。会派人数で、例えば、質問者が少なくて、その定例会の質問時間の総量が少なくても、会派の人数で割るので、実態に合っていない。やはり、その議会で通告した一般質問の総時間できちんと紙面割りをするのが一般質問の実態を反映させる形になると思うので、それをお願いしたいと思う。

 

(結局、他の多数の議員の賛同は得られず、1と3は現状維持で、「船橋市議会だより」は愛称なしのままとなりました。2の提案は合意を得て実現。ぜひイラスト応募ください。)

 

東大時代の資料の中で、紛失・散逸せずに手元に保存しているものは多くはありません。ただ、私の社会的活動の原点の一つである、東大駒場寮委員会広報誌「ぷあ」が、よい保存状態で保存してありましたので、公開いたします。 当時(1980年代前半)の学生の雰囲気がわかるとともに、私の今の市議の活動につながる原点を確認させていただくものです。(以下「ぷあ」をご理解いただくための背景の説明をいたしますが、お読みいただいてから「ぷあ」をご覧いただいても、逆に「ぷあ」をご覧いただいてからお読みいただいてもかまいません。)