東大駒場寮委員会(委員長:私)と教養学部学寮委員会(第八委員会)の合意書仮調印(1984年3月20日)40年目の節目に想う。

2024年3月20日 船橋市議(元東大駒場寮102期寮委員長)朝倉幹晴

人間、あまり過去にこだわりすぎるのはよくないとは思っています。この週末には以下企画も準備しており、未来に向かって進んでいる中での少しの振り返りですのでご容赦いただければと思います。
●2024年3月24日(日)13時半~16時半、連続講演&パネルディスカッション「どうつくる? からだと社会の健康」

過去の経験あってこその現在でもあります。私が1980年代前半に東大駒場寮委員長を担った経験がなければ、おそらく船橋市議にもならなかったろうと思いますので、「東大駒場寮委員会(委員長:朝倉幹晴)と東大教養学部学寮委員会(第八委員会、委員長、藤本敦雄)」の「駒場寮水光熱費負担と寮施設改善に関する合意書」仮調印(1984年3月20日)の40年目の節目である本日、想いを書かせていただきます。

1,安い学生寮で助かった私の大学生活
私の実家(愛知県豊橋市)は、「ガラ紡」(日本の伝統的紡績)でふきんを作っている町工場・零細企業です。決して豊かではなく、(当時は塾・予備校通いはそもそも少なかったこともあり)、塾・予備校には通わず、独学で勉強しました。そんな私がのちに予備校講師になるのも不思議な縁と感じています。幸い、現役で東大理科1類(工学部系)に合格できました。
のちに生物系に転向しましたが、入学当時の夢は「銀河鉄道999」にあこがれ、種子島の航空宇宙研究所に行って、ロケットを飛ばことでした。
実家が豊かでなかったので、生活費を抑える目的もあって東大駒場寮(寮生400人)に入寮しました。当時、寮費は月2100円(200円:寮風呂のボイラー重油代の一部、1800円:寮自治会費、100円:国庫納付金)でした。おかげさまで、家からの最小限の仕送りで生活できました(大学後半は、吉野家と家庭教師のバイトで仕送りなしで過ごした)。

2、東大駒場寮の沿革
東大は毎年3000人が入学し、大学1・2年生の教養学部を目黒区駒場の駒場キャンパスで学び、3・4年生の専門課程や大学院の多くは文京区本郷・弥生の本郷・弥生キャンパスで学びます。ただし、駒場にも一部専門課程(基礎科学科、教養学科)があり、また駒場には留年生も多いため、駒場キャンパスの学生は約7000人となります。そして、東大駒場寮はキャンパス内にある学内寮で、1980年代当時約400人が住んでいました(2001年に廃寮となりました)。寮は自主運営する寮自治会を組織していました。全寮生の直接選挙でえらばれる寮委員長が、執行機関である寮委員会を組織します。そして寮委員会が、寮の各部屋から選出される総代の集まりである総代会(議会に相当)に提案し、総代会で賛成多数で可決されたものを執行できる形をとっています。地方自治が市民の「民主主義の学校」と言われるのと同様に、駒場寮自治会は学生(寮生)にとって「民主主義の学校」でした。

東大駒場寮全景

寮の部屋での私(1984年)

 

3、1980年代前半の駒場寮自治会での課題
学生寮は、低所得者でも大学進学ができるように、低廉な家賃で生活できました。私が入寮した時の寮費は、国庫への支払い100円、寮委員会月2000円(うち200円が寮風呂のボイラーの重油代、1800円が寮自治会の運営費)であり、水光熱費は大学持ちでした。低廉な一方、施設改修は進まず、24畳の3人部屋で、蛍光灯2本、電気容量5Aという状態で、暗くて視力を落とす学生も多く、また、コタツとポットを同時に付けると5Aを越え、ブレーカーが飛び停電するという状態でした。
寮自治会としては、照明を倍加すること(1部屋蛍光灯2本→4本)、電気容量を三倍化すること(1部屋5A→15A)を求めて運動を行っていました。
一方、文部省(今の文部科学省)のほうは、水光熱費を寮生が負担せず大学が負担しているのは不適切だとして、水光熱費を寮生に払わせるように、大学に要請していました。

ここで、現在2024年時点の感覚からすると以下のようになると思います。
ア 照明と電気容量が少なすぎるのは、寮生の人権にも関わりすみやかに改修すべきである。
イ 水光熱費は寮生に払わせるべきである。そもそも月2100円は安すぎる。
ウ そもそも、教育に金をかけないと東大に入ることは難しい。東大生の親の年収は日本平均よりかなり高いと聞く。だからそんな層に経済的配慮をする必要はないのではないか?

この2024年現在の一般的な感覚からするとこれから紹介する寮生の中でも1980年代当時の議論全体が浮世離れに思われるかもしれません。しかし、

エ 第2次世界大戦後の混乱期・経済的困窮期も含めて、低廉な寮費が、家にお金がなくても大学で学べる保障となっていた。実際、当時、バイトのみで学費・寮費・生活費を払う苦学生は多かった。

オ エの歴史を学び、教育の機会均等を守るため低廉な寮費を維持しようとする意志が学生・寮生の中に強かった。

という状況がありました。その中での議論です。

4、大学から駒場寮委員会へ水光熱費の負担要請と寮内の意見対立

文部省の要請もあり、大学は「寮生の水光熱費を負担しない限り、寮施設改善に応じない」という姿勢をとり、期限付きで「水光熱費の負担に応じない場合、廃寮も辞さない」という姿勢になってきました。当時の寮生は、その大学の姿勢は問題である点とする意見は共通しているのですが、実際の対応では、しだいに2つの意見に分かれていきます。

a 「負担増反対」路線。廃寮宣告に対しては徹底抗戦すべき(その間、寮施設改善が止まるのはやむをえない)。負担増を認めることで、経済的に苦しい人が大学に進学できなくなることは絶対に避けるべき。

b 「水光熱費負担、施設改善」路線。部屋の水光熱費の負担増はやむをえない。ただ廊下・寮委員会室など共用スペースの水光熱費は大学負担を継続させることで、値上げ額を抑える交渉をすべき。そして水光熱費負担に応じるかわりに寮施設改善を行うことを確約・実施させるべき。

上記の2つの意見の支持は均衡し、両意見の寮委員長が選挙ごとに頻繁に政権交代する状況となりました。この議論が1982~1984年の3年間なされました。


5、1982年11月、泉房穂氏、98期寮委員長に当選
そんな中で、1982年に98期寮委員長に立候補された泉房穂さん(前明石市長)は、対立候補に圧勝し、支持者とともに強力な寮委員会を作り、様々な改革を進めました。その改革の中で、私が最も感銘を受けたのが、寮委員会広報誌の名称を「ぷあ」に変更したことです。

 当時は今のようにネットもない時代です。たとえば、当時学生も含む若者の中では映画・演劇鑑賞がデートでも趣味でも定番で、新聞に広告のようにのる映画館案内情報を見るか、映画館に電話したりしないと確認できない状態で、ある学生が、映画・演劇などのイベント情報を掲載する雑誌「ぴあ」を創刊し、若者・学生の中で大人気でした。

 泉房穂98期寮委員長は、絶妙なネーミングセンスで、貧しい(経済的に豊かではない)家庭の学生でも、駒場寮に住めば大学で学ぶことができるという願いを込めて、駒場寮委員会広報誌をほぼ同じ字体でpoor(貧しい)からとった「ぷあ」に名称変更しました。

私は、その「ぷあ」の第4代編集長にあたる101期広報部長を務めました。

6、1984年2月、同点決戦・再投票で私が102期寮委員長に

私は、a(「負担増反対」路線)・b(「水光熱費負担・施設改善」路線)の意見対立の中では、bの意見でした。同じくbの意見だった101期寮委員長のあと、aの候補との間で寮委員長選挙を行い、113票対113票で同点(1984年2月7日)、そして再投票(2月10日)で、115票対113票で102期寮委員長となりました。寮の議決機関である「総代会」でもbの意見が可決され、寮委員会としては、3月19日に大学側(教養学部学寮委員会(第八委員会))との団体交渉で「水光熱費負担と施設改善」を仮調印する方針を決めました。

7、荒れた1984年3月19日の団体交渉と、3月20日未明の合意書仮調印

寮委員長も総代会決定も、b(「水光熱費負担・施設改善」路線)の意見なので、すんなりと団体交渉は進むかというとそういうわけではありませんでした。団体交渉は寮委員会だけでなく、全ての寮生が参加・発言可能です。寮生の生の声を大学側に聞いていただく機会でもあるという側面もあります。当然a(「負担増反対」路線)の意見の寮生も参加され、大学側に「そもそも負担増を迫ることが、教育の機会均等を阻害する」という原則論で質疑を重ねます。大学側も答えようとします。また、その原則論だけではなく、実際の生活の苦しさを切々と訴える発言もあり、b(「水光熱費負担・施設改善」路線)の意見である私も拝聴いたしました。
16時に開会し、23時過ぎても議論は終わりません。さすがに寮委員長選挙・寮委員会決定・総代会決定に基づき、合意書に仮調印を行う旨を私が発言したところ、寮委員会とaの寮生との間で紛糾し(といってもお互い寮生どうし「配慮」を持った紛糾でした)、大学側は一旦帰り、団体交渉は自然に終わることになりました。
その後、11時半すぎの寮委員会で「総代会決定に基づき、合意書に仮調印する」ことを確認し、12時過ぎ(つまり日付は1984年3月20日)、大学側学生課会議室で、合意書に仮調印しました。

 

仮調印後もいろいろもめましたが、1984年5月9日の総代会で合意書を全寮投票で批准することを提案し可決されしました。寮委員長選挙でbの意見の私が勝ったとはいえ拮抗した票数であったし、最後は「住民投票」に相当する「全寮投票」で決めるのが、丁寧な民主主義のプロセスだろうと考えたからです。5月11日の全寮投票では、賛成181、反対30と批准承認され、これに基づき5月24日の合意書に正式調印しました。

合意の内容面としては、そして水光熱費負担も当初の月3500円案を、大学負担の共用スペースをできるだけ広く捉えさせることで月2800円まで値下げをさせました。合意に準拠し、大学側は、電気容量三倍化・照明倍加工事を2年後に行いました。
また、大学が水光熱費負担を迫ってきた背景に、寮生との合意なしし、会計検査院に対して負担を約束したことがあったことを踏まえて「駒場寮に関して大学が意思決定をする際には、事前に駒場寮の意見を反映させるように努力する」という確認事項を大学に認めさせました。(残念ながら、この確認事項が守られずに、2001年に、結局、廃寮となってしまいました。)

1983・84年のa・b意見対立の中で、泉さんはaの側だったので、いろいろありました。そのことは角川書店から出された以下の本に私も登場します。船橋市中央公民館にも所蔵されています。また、2016年駒場祭での講演の中で語っていますのでよかったらご覧ください。

(講演60分、質疑30分)、泉さんや水光熱費負担区分問題は20~30分目で語っています。
●動画 2016年11月東大駒場祭学術企画「駒場寮から考えるコマバの未来」

また、当時、意見の違いはあっても「経済的に苦しい人も大学に通えるように、低廉な学生寮が必要だ」という点は一致していましたし、卒業後は仲良いです。泉房穂さんのパワフルな姿勢は学生時代と変わらず、更に勢いを増しており、私も発言や行動に注目させていただいています。


<2023年10月21日(土) 東大ホームカミングデー 駒場寮同窓会主催講演会後にて泉房穂前明石市長(98期駒場寮委員長)と>

7、今につながるこの時の経験

10代・20代前半での、このような体験を通じ、私は、入学当初目標としていた自然科学の研究者になるよりも、「人の中で語りあう仕事がしたい」と考えるようになり、教師を目指すことにしました。そして、受験生たちの中での仕事である予備校講師を経て、市民の中での仕事である「市議」になりました。市議の活動にはこの時の経験が役立つとともに、マンション管理組合理事長としての理事会運営や総会での議事運営にも役立っています。長くなりましたが、この経験を大切にしながら、同時にとらわれすぎることも避けながら、今後も活動をしていくつもりです。