【船橋史】船橋各地の歴史の基礎説明
2022年5月1日 船橋市議・船橋史愛好家 朝倉幹晴
あさくらだより103号掲載地図
まず、青字で朝倉が加筆した部分について北から順に簡単な解説をいたします。
●神保新田
新田とは、原野などを開墾し新しく田畑としたものである。江戸時代の延宝年間(1670年代)に船橋地区で開墾された7つの新田の一つ。今でも、船橋~小室間の新京成バスのバス停にその名が残されている。
神保新田のおいたち(船橋市HPより)
●二和開墾・三咲開墾
江戸時代、幕府直轄で馬を放牧する牧(まき、牧場)として、船橋地域には小金牧(5つの牧の総称)・佐倉牧(7つの牧の総称)があった。二和には小金牧の一つである下野牧の境界に作られた土手(野馬土手)がよく保存されている。明治政府は、牧を入植者によって開墾し農地にする方針をとり、東京府の下総開墾局が千葉県内で順番に開墾を進め、初富(はつとみ、現鎌ケ谷市)、二和(ふたわ)、三咲(みさき)の順に入植を進めた。現在の地名や駅名の豊四季(柏市)、五香(松戸市)、六実(松戸市)、七栄(富里市)、八街(八街市)、九美上(香取市)、十倉(白井市)、十余一(白井市)、十余二(柏市)、十余二(成田市)などに開墾の順番が残されている。
当初はいった開墾会社が計画以上の資金が必要とわかると開墾を放棄し、多くの入植者も去った。しかし、残った少数のものとあたらな入植者によって開墾が続けられた。
二和の歴史(船橋市HPより)
下野牧二和野間土手(船橋市HPより)
●御瀧不動尊
海老川の源流と言われる不動滝(行者滝)が存在し、湧き水に対して信仰が生まれ不動尊がおかれた。また行者も集まった。江戸幕府も下野牧(牧場)の中にあたが、信仰の厚さから参拝を許した。
真言宗豊山派 御瀧不動尊金蔵寺HP
●丸山新田
丸山は西隣の道野辺村(鎌ケ谷市)が利用していた野原だった。江戸時代の延宝三年(1674年)に、行徳の人が幕府の許可を得て新田を開く。丸山新田は1889年(明治22年)に藤原新田・上山新田とともに法典村となりのちに船橋市となる。一方、道野辺村は鎌ケ谷市となる。丸山の南側の二和川の谷はすでに道野辺村の人が開いた水田を作っていたので、丸山は鎌ケ谷市に囲まれた船橋市の飛び地となった。
●藤原新田・上山新田
上記の通り丸山新田・藤原新田・上山新田が合同し法典村となり、やがて船橋市となる。この法典村で、明治42年(1908年)に、市川市鬼越と鎌ケ谷市を結ぶ単線の貨物運搬のための東葛人車鉄道が開通した歴史は興味深い。主な軌道は今の木下街道に沿ったものであった。人車鉄道は、1人・2人の人夫が押して運ぶ。のちに2・3人の人を載せて運ぶ旅客も行った。経営不振から大正7年(1918年)には廃止された。
法典(ほうでん)地域の歴史(船橋市HPより)
●行田新田・海軍船橋無線塔
江戸時代に開かれた行田新田は行田村となり、前貝塚町・後貝塚町(現、旭町)と合併して、明治22年(1889年)に塚田村となる。貝塚の「塚」と行田の「田」一文字ずつ組み合わせた命名であった。
大正2年(1913年)、塚田村の数軒の家と畑を海軍が買収し、半径400mの円形に無線塔敷地としたが、諏訪神社にさしかかる部分については移転をせず少しだけ円の境界線がくぼんでいる。無線塔は中央の主塔と周囲の18個の副搭がアンテナ線で結ばれたものであった。太平洋戦争開戦時の、真珠湾攻撃を指令する「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を発信した。
敗戦後、米軍が接収し、日本に返還後、無線塔は解体され、行田団地や国家公務員系の住居が作られる。無線塔敷地の境界だった部分が、現在でも円形道路として残っている。
●前原新田・滝台新田
江戸時代、他の新田と同時期に開かれる。1889年(明治22年)に二宮村の一部となる。1896年(明治28年)、津田沼村との村境に津田沼駅が開設され、陸軍の演習場の玄関口としてにぎわう。津田沼駅を起点とする旧陸軍の演習用路線であった新京成線は、演習のためか空襲を避けるためか蛇行が多く作られ今にいたる。
この地域のもう一つの歴史として、1722年(享保7年、吉宗の時代)に幕府が下野牧の一部に作った薬園がある。医師・本草学者の丹羽正伯(にわしょうはく)が薬園の開発と薬草の栽培を行った。この地は薬園台とよばれ、今も薬園台高校や薬園台駅の名称に「園」の名前が残され、薬円台公民館前には「正伯公園」がある。
●船橋御厨(みくりや)(夏見御厨)
先行して、「吾妻鏡」船橋御厨(みくりや)に関しての簡単な説明です。詳しい範囲はわかっていないがが、夏見も含め船橋の中央部から南部にあったことから「夏見御厨」とも言われる。
大化の改新(645年)で、土地はすべて国家(天皇)のものとし、それを6歳以上の男女に分け与え、死亡すると没収するという公地公民制(土地は国有)が導入された。しかし、その後、耕地を増やすために、新しく開墾した土地は3代私有を認める三世一身法(729年)、永久の私有を認める墾田永年私財法(743年)ができ、私有地が認められていく。貴族、寺社、豪族たちは、大規模な開墾を行い、大規模な私有地(荘園)を増やす。
荘園は後ろ盾が弱いと略奪などにあうこともあるため、荘園領主は、積極的に強い後ろ盾を得るために寄進をしたり、護衛に武士を雇ったりするようになる。。
平安末期から鎌倉時代初期のことを記録した歴史書「吾妻鏡」に初めて登場する「船橋御厨」(1186年)は、夏見も含む船橋中央部から南部にかけた広い範囲と推定されているが正確な範囲はわかっていない。「吾妻鏡」では、院御領とされており、当時の後白河上皇(法皇)に寄進されたことを示している。船橋御厨は伊勢神宮に寄進されていた時期もある。
5月27日(金)20~21時にZoomにて、この解説も含めて平安時代末期から鎌倉時代初期に関しの講座を行います。よかったらご参加ください。
オンライン学びのひろば(毎週金曜日20~21時)のご案内(各回テーマ)
●二宮神社
水源地であり、信仰の高まりの中で神社が作られた。聖なる流れを意味する「佐寒川神社」とも呼ばれた。三山は「御山」と書かれることもあり、信仰の深さを示している。近隣四市(船橋市・習志野市・八千代市・千葉市)にまたがる大きな祭り「下総三山の七年祭り」が有名である。
●船橋大神宮(意富比(おおひ)神社)
平安時代、927年(延長5年)に完成した延喜式神名帳に「下総国 意富比神社」の記載がある。鎌倉時代は、日蓮上人が断食祈願を修め、江戸幕府も土地を寄進した。幕末の戊辰戦争の一つである市川・船橋戦争では、一時、旧幕府軍が船橋大神宮や正中山法華経寺に拠点をもち、船橋大神宮付近でも戦闘が行われた。
●正中山法華経寺(市川市)
鎌倉時代に日蓮上人が最初に開いた霊場である。
正中山法華経寺HP
●栗原郷
平安時代の承平5年(925年)頃の「倭名類聚妙」に葛飾郡の七郷の一つとして「葛飾郡 栗原郷」の名称が出てくる。江戸時代の一時期、この地区に「栗原藩」という藩もあった。この名前は「小栗原小学校」に引き継がれている。
●三田浜塩田
市川塩浜という地名に残されているように、東京湾奥には塩田が多く作られた。三田浜塩田は1880年(明治13年)に作られ、1929年(昭和4年)に閉じられた。跡地には動物園・割烹料理などのある三田浜楽園が作られ、川端康成も滞在した時期がある。
<追加解説>
●小室
史料上はじめて「こむろ」が出現するのは、建武新政で鎌倉幕府が倒れる(1333年)直前の、1331年(元徳3年)の「白井庄古牟呂村」です(正中山法華経寺資料)。(白井庄は、上記「吾妻鏡」で「船橋御厨」と併記されています。)
今、プラウドという子育て世代中心の街になっている位置にあった「小室台遺跡」では、5世紀なかば~7世紀なかばの古墳時代の竪穴住居跡が40軒があり、北側の「白井先遺跡」でも同時期の竪穴住居跡がみつかっています。
また、市内はじめての前方後円墳1基も見つかっており、印波国造(いんばのくにのみやつこ)の一角の地方小首長だったと推定されています。その他に「円墳」も2基見つかっています。
他に縄文時代、室町時代、江戸時代の遺跡も見つかっています。
<参考>
船橋史の歴史地図が詳しい展示会として行われた2016年11月1日~12月28日に船橋市飛ノ台史跡公園博物館にて開催された「船橋の遺跡~里帰りした資料(モノ)たち~」の企画パンフレットを以下に掲載します。ご参考にください。